函館五稜郭を訪れて

先日、家族連れで北海道函館へ旅行に行ってきました。函館は江戸時代まで「箱館」と書かれ、幕末には数少ない開港地となって外国との貿易も行われていました。大政奉還後には明治新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争と呼ばれる一連の内戦がはじまり、この函館で行われた内戦は箱館戦争と呼ばれる最後に戦いでした。薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍は京都から江戸へと進撃し、徐々に追い詰められていた旧幕府軍は、榎本武揚を中心に、北海道に蝦夷共和国をつくるという夢を描き、この箱館の地にたどり着きました。そこにはフランスの援助で、幕府が7年間かけて30万両も投じてつくった五稜郭と呼ばれる星形の西洋式城郭がありました。榎本は江戸湾にあった最新式の軍艦開陽丸で箱館に到着し、ここで艦砲射撃をして新政府軍を壊滅させることも考えていたようですが、新政府軍が到着するまでに暴風雪で開陽丸は沈没してしまい、結局、五稜郭に立てこもることしかできなくなりました。また、イギリスから援助をうけて最新式の軍需品を装備した新政府軍に対して、旧幕府軍の武器は旧式で、武力の差は明らかでした。逆に新政府軍の軍艦からの艦砲射撃で五稜郭は壊滅的な打撃を受け、榎本ら旧幕府の要職についていた人たちは新政府軍に投降して箱館戦争は終了します。
 五稜郭が壊滅的打撃をうけた時、五稜郭に立てこもっていた兵士の中に、負傷し脱走していく者もおり、近くの箱館病院に収容されて手当を受けていました。新政府軍の一隊はこの箱館病院にも突入してきました。ところが時の病院長であった高松凌雲は、身動きできない病人や怪我人の命を助けるために赤十字精神の大切さを訴えました。高松が、新政府軍の負傷者も分け隔てなく救助すること、脱走兵には新政府軍へ投降をうながすことなどを約束すると、病院への襲撃は中止されました。五稜郭のそばには五稜郭タワーという塔が立っており(図1)、ここから五稜郭の全貌が見えて大変おもしろいのですが(図2)、タワーの展望台の中の展示物には箱館戦争のときのいろいろな逸話が説明されており、この箱館病院の逸話も、ミニチュアの人形でその時のシーンが再現されていました(図3)。日本のしきたりでは、戦いで敗れた方の大将は切腹して家臣たちに代わってすべての責任をとるという風習だったと思いますが、すでにそのころの日本は世界の事情もいろいろと取り入れていました。また当時、蝦夷共和国は、海外へも新聞で紹介されており、新政府軍の動向には注目が集まっていました。世界の目を気にしながら、海外からばかにされるような国際的に非常識な措置はとるべきではないとの意識もあったのかもしれません。現に、降伏した榎本は、新政府軍に投降したのち、処刑されることもなく、逆にその後、明治新政府では外務大臣や駐露公使など要職を務めています。
 さらに興味深いことに、この五稜郭そのものをつくる際にフランスが援助してくれたきっかけも、人命救助にありました。1854年アメリカとの間で締結した日米和親条約で箱館が開港しました。翌年フランス軍艦シビル号の艦内で多くの病人が発生したため、シビル号は箱館港に入港して病人の療養許可を求めました。当時はフランスとの条約はまだ結ばれておらず、つまりフランスに対して日本はまだ鎖国状態にあり、本来ならこの援助要請を断る選択肢もあったのですが、江戸幕府から派遣されていた時の箱館奉行竹内下野守は、人命を優先して乗組員の上陸を許可し、多くの船員が救われました。これは外国に対して初めて日本が行った公式の人命救助で、これが日仏交流のきっかけとなって、フランスは西洋式城郭に関するさまざまな情報提供など江戸幕府に援助を行った結果、五稜郭は完成したそうです。
 江戸幕府が滅亡し、日本が2つに分かれて戦争した結果、多くの人がなくなったのは悲しい歴史ですが、この五稜郭にまつわるエピソードとして、戦争での敵・味方あるいは日本人・外国人などの分けへだてなく、より高い次元で人命救助が何よりも優先されるべきであると唱えた日本人がいたことを知って、少しうれしい気持ちにもなって五稜郭タワーを降りました。

図1

図2

図3

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