壇の浦の戦いをしのんで

前回の歴史探訪でご紹介しましたみもすそ川公園には砲台のほかに平安時代末期1185年の壇の浦の戦いのシーンを彫刻した銅像があります。ひとつは源平合戦のヒーローとして知られる源義経の像、もうひとつは平家側で優秀な武将とされていた平知盛の像です。では時代背景から説明します。
合戦の背景
平安時代末期、中央(都のある平安京)あるいは地方におけるさまざまな抗争の解決の際に、公家は、武力を発揮できる武家の力を頼る機会が増えていました。その頃、武家は源氏と平氏の2大勢力が対立しましたが、いくつかの乱を経て最終的には平氏が政界をほぼ独占するに至ります。その中心人物は、公家のトップであった後白河法皇の厚い信任を得て貴族以外で初めて太政大臣に任命された平清盛でした。清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させ、その皇子を安徳天皇として即位させると、天皇の叔父として権力を握りました。さらに自分の一族を全国の約半数の国の知行国主に任命したり、500余カ所の荘園の管理人として任命したり、日宋貿易の利潤も独占したりしました。「平氏にあらずんば人にあらず」という平時忠の言葉に示されるように、中央の官職もほとんど平氏で独占され、徐々に公家や寺社などからも反感を持たれる存在となっていきました。一方で源氏は中央から追い出されて東国を中心に土着し、中央で我が物顔にふるまう平氏政権に対する不満を徐々につのらせていました。そしてついに後白河法皇の皇子である以仁王の平氏追討命令が下り1180年から始まる治承・寿永の乱に至ります。いわゆる源平合戦です。都を牛耳っていた平氏を最初に襲撃したのは北陸地方に勢力を張っていた源義仲でした。電撃的な勢いで京都を占拠した義仲でしたが、武力で平氏をけちらしたものの、交渉能力が低く、今でいうところの「空気を読めない」人物だったようで、都にいた公家勢力からはけむたがられる存在になっていました。一方、伊豆には源氏の嫡流である源頼朝が幽閉されていましたが、ひそかに平氏追討の命令が届けられると、頼朝は平氏打倒の旗を挙げて立ち上がりました。しかし石橋山の戦いで破れて安房に退散するなど、少なくとも天才的ないくさ上手ではなかったようです。富士川の戦いで平氏の軍勢に勝ち、そのあとは鎌倉にいて、ひたすら多くの東国武士と主従関係を結び、武家が政治の主導権を握る国をつくろうと努力しました。具体的に言うと、頼朝は、東国武士たちが開発して所有していた荘園を彼らのもつ土地として正式に認める本領安堵を行っていきました。さらに後白河法皇など朝廷とも巧みに交渉し、頼朝が本領安堵により主従関係を結んだ家来(御家人)に荘園の管理人たる地頭に任命する許可を得ることに成功しました。こうして頼朝は御家人に対して、彼らがもつ荘園の管理人としての権利を認めることとひきかえに、その御恩に報いるべくいくさで命がけのはたらきをする約束をとりかわしていったのです。そんななか、義仲を都から追い出したいと思っていた後白河法皇は、頼朝に北陸を除く(北陸は義仲の根拠地だったため)東国地域の支配者としての地位を認める宣旨を出しました。このようにして東国では頼朝の御家人となって戦で貢献しようとする武士がどんどん増え、平氏打倒を叫ぶ源氏の勢力はふくれあがってきました。この武士団をベースにしてついに頼朝は、都に義経、範頼らを派遣して義仲を討ち、その後は、義経を中心とする源氏軍団が、一の谷(1184年)、屋島(1185年)、と合戦を重ねるにつれて平氏勢力を西へ西へと追いやりました。そしてついに、この壇の浦での最終決戦となったのです。
合戦の経過と結末
もともと源氏は良馬を産出する東国を基盤に土着しており騎馬戦法を得意としていました。一方、平氏は西国に基盤をもち、瀬戸内海の海賊平定など海での戦いにも慣れていました。壇ノ浦の戦いはまさに海上でのいくさとなったため最初のうちは平氏優位で戦いは進みましたが、関門海峡の潮流の変化などが加勢したとの説もありますが徐々に源氏が盛り返し、遂に平氏敗北は決定的な状況となりました。抜群の運動能力をもった源義経は、海に浮かぶ船に次々と飛び移りながら戦っていました。この時の様子を彫刻した銅像がこの公園にありました。今にも動き出しそうな躍動感を感じさせる銅像です。一方、この壇の浦の戦いの前に平氏は彦島を最大拠点としそこでの総大将として任命されたのは知盛でした。敗戦が決定的となったとき、いさぎよく入水の準備をするよう女官たちに指示しはじめます。自分自身は、入水して浮いてくることがないよう重い鎧を何重にも着て、という記述もありますが、船の錨を身体に巻いて入水したともいわれ、この公園にはこの時のシーンを銅像にしてありました。こうして壇の浦の戦いで平氏は滅亡します。時代の転換期に多くの武士が亡くなったこの関門海峡ですが、平家物語では、戦いのあとにだれも乗っていない船に、カラフルな衣装や旗だけが無残にも残され、壇の浦にただよっている風景を描き、無常観をうたい上げています。「海上には赤旗、赤印、投げすてかなぐりすてたりければ、竜田河のもみじ葉を嵐の吹きちらしたるがごとし。みぎはに寄する白波も薄紅にぞなりにける。主もなきむなしき舟は、塩に引かれ、風にしたがいて、いづくをさすともなくゆられゆくこそ悲しけれ。」
合戦後、源平合戦のヒーローとして都には義経の名が知れ渡りました。後白河法皇は義経に土地を含めた数々の褒美を与えましたが、これが義経と頼朝との兄弟関係に亀裂が入る原因となりました。本来、義経は、頼朝が平氏を討伐するために送った武将であったはずなので上司は頼朝のはず、それが義経は頼朝ではなく後白河法皇になびいて、都で公家から英雄扱いされている。公家には遠慮いただき武家中心の国造りを目指してきた頼朝が、義経を快く思うはずがありません。両者の間に対立関係ができました。公家に絶大な人気のあった義経ですが、多くの御家人には支持されず、最終的に奥州に落ち延びて一時は藤原氏の保護を受けました。しかし、結局は頼朝の勢威を恐れた藤原泰衡により殺されました。このことを思うと、みもすそ川公園にある源義経の銅像は、確かに俊敏に動き回って合戦で活躍する姿を表していますが、顔の表情にはどこか暗いイメージが感じられ、またそれとは対照的に、すべてやることはやった、さあこれから入水しよう、という知盛のふっきれた表情が感じられるのは私だけでしょうか。

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