平安京の応天門

はじめに

医療現場では、些細なことがもととなって患者や家族に悪い印象をもたれ、あとあとの診療に大きくひびく結果になるという場面があります。医療に限らず最初は小さなことと思っていても、大きなことにつながることは誰もが経験していることでしょう。歴史探訪で今回とりあげる話題は、古くから代々続いてきた有名な氏族が、子供の喧嘩という些細なことがもとで、政界から排斥される大事件となった応天門の変です。

事件の背景

平安時代がはじまって50年ぐらいがたった時点で、藤原氏、伴氏、紀氏、橘氏、などが有力氏族として政界で実力を持っていましたが、842年の承和の変という事件で橘逸勢と伴健峯らの有力貴族が流罪に処せられました。一方、藤原良房は妹の順子を仁明天皇の皇后として嫁がせ、間に生まれた皇太子が文徳天皇となると、天皇との外戚(母方の親戚)関係になることで、太政大臣となって勢力を伸ばしていました。良房はさらに文徳天皇に娘の明子を嫁がせその間に生まれた皇太子が858年に幼少の清和天皇として即位すると、藤原良房は外祖父(母方の叔父)の立場を利用して、事実上、幼少の天皇を補佐する摂政という立場になりました。伴氏は一時勢力を落としましたが、再びもりかえして、一族の伴善男が大納言という地位にありました。しかしそれより高い左大臣という地位についていた源信(みなもとのまこと)とは常に意見もぶつかり互いに政敵の関係でした。伴善男は何とか源信を失脚させて大臣の地位をねらっていたようです。

事件の経緯

その当時平安京の大内裏(天皇の居所)には政務や儀礼を行う朝堂院という重要な建物がありましたが、その正門である応天門が深夜に炎上しました。この時、伴善男は、ほとんど調査や詮議もしないうちに源信が犯人であるとして、藤原良房の弟の右大臣藤原良相に密告し、天皇もその意見に流されて、良相は源信を捕らえようとするところでした。その当時、藤原良房は、実際の政務を良相に譲って、自分は直接天皇に助言などができる立場にありましたが、このうわさを聞きつけて天皇のもとに直行し、左大臣ともある人物を捕らえるのであれば十分な調査、詮議が必要と助言し、源信の逮捕はとりやめとなりました。

 実はこの事件には目撃者がいました。右兵衛という者の舎人(貴人に仕えていた身分)であった大宅鷹取でした。右兵衛宅で勤務を終え、夜更けに家へ帰ろうとして応天門の前を通りかかると、人の気配がして、ささやき声が聞こえました。隠れて見ていると、応天門の柱の上からずり降りて来る者があり、よく見ると伴善男で、そのあとに続いて息子の伴仲庸、さらに善男に仕えていた紀豊城が降りてきました。3人は、降りた途端、一目散に駆け出しました。鷹取は不思議に思いながらも再び家に向かい出し、しばらく歩いていると応天門が炎上している話を聞きつけ、急いで現場に戻ると、確かに応天門がもうもうと燃えていました。あのときの3人が、放火するために登ったのだな、と納得したのですが、こんな大変な事をもし口外すれば自分もどのような目にあうかわからないと思い、誰にも口外しないでいました。真犯人がわからないまま月日が経ちました。ある日、伴善男の出納係をしていた男の子供と鷹取の子供が喧嘩をしていました。出納係の男が怒鳴ったため、鷹取が子供に分け入って喧嘩をとめようとしました。すると、出納係の男も出てきて、子供に近づいて引き離し、自分の子を家に入れ、鷹取の子の髪の毛をつかんで地面にたたき伏せ、死ぬほど踏みつけたのです。鷹取は、「子供同士の喧嘩なのに、放っておくわけでもなく、私の子ばかり踏みつけるとは、ひどいしうちだ。」と、腹を立てました。すると、出納係の男は、「おまえは何を抜かすか。舎人の分際でおまえごときを俺がぶん殴ったところで、何の罪にもならん。伴善男様がいらっしゃるからな、俺がいかに過ちを犯したところで、誰が手出しなどできるものか。おろかな事をほざくこじき野郎め」とののしったので、鷹取は激怒しました。「おまえこそ何を抜かす。おまえの主のことを偉いとでも思っているのか。おまえの主は、俺が黙っているから人並みにしていられるということも知らんのか。俺が口を開けば、おまえの主など一人前ではいられんぞ。」と、言い返すと、出納係は腹を立てながら家の中へ入ってしまいました。喧嘩には野次馬がつきものですが、この喧嘩を見ようと集まった近所の人々が、群をなしてそれを聞き、「俺が口を開けば」とはいったいどういう意味だろうと思い、これが次から次へと広まり、都中が噂で持ちきりとなりました。ついにそれが朝廷の耳にも届いたため、鷹取は取り調べを受けることになりました。詰問すると、鷹取は初め黙っていましたが「だまっいれば、おまえも同罪になるぞ」と言われて、ありのままを語りました。その後、伴善男や息子の仲庸も詰問され、事が明らかになり、伴善男、仲庸、紀豊城をはじめ伴氏、紀氏の多くの有力者が流罪となりました。最初に天皇に助言した藤原良房は、それまでは事実上の摂政という立場で天皇に助言、補佐する立場でしたが、この事件ののち、清和天皇に依頼されて正式に摂政の位につき、藤原北家が他氏を排斥し、政治の実権を握っていく大きなきっかけとなったのです。

 良房にとっては、何もかも大変うまくいきすぎた結果となったこの事件ですが、何か他に裏があるのか、真相は謎につつまれた面もあります。しかし、伴善男は、生まれつき人品が優れている一方で、狡猾で悪賢いところがあり、傲岸で人と打ち解けなかったとも言われています。弁舌は達者で明瞭、政務には通じていましたが、寛容さや優雅さがなく、徹底的に人を糾弾したりする傾向があったと言います。特に現在の社会でも管理職たる上司がいてその部下がいる場合、上司は大きく分けて、①多くを語らずに自らの行動をもって部下に教育するタイプと、②自らは監督に徹して事あるごとに部下を呼んで教育するタイプ、があると思います。その職場集団や環境によって、どちらに重点がおかれるかは変わってくると思いますが、理想的な上司は、その職場にちょうどあった割合で両者のバランスをとっている人ではないかと思います。その点で、伴善男は、政務をとる職につきながら、寛容、やさしさという人間の基本的な感情に関わる品格に欠けていたようであり、その上司のもとでは部下もしかり、つまり上司から見習う要素がないので①の要素に欠けていたのでしょう。また実際には②のタイプの管理職であっても、仮に上司自身が①のできないような人物であれば、当然部下に教育しようとも説得力がなく、部下に納得させられる本物の指導はできないと思います。自分も病院では中間管理職的な立場にあり、なかなか①と②のバランスをとれるような上司にはなれていないと、反省する日々です。

現在、京都市にある平安神宮の応天門(重要文化財)はもともと平安京の応天門を5/8に縮小したレプリカとして復元されています。新型コロナウイルス感染のための自粛が緩和されて、応天門前を通りかかり、応天門炎上の姿を想像しながら平安時代の昔に思いを馳せていました。

平安京応天門を復元した平安神宮の応天門

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