出島を訪れて

先日、連休を使って長崎県へ家族旅行してきました。2日間ハウステンボスで遊んだあと、最終日に長崎の町を観光しました。そこで日本史オタクの私がぜひとも訪れたかった出島に行ってきました。1636年、江戸幕府はヨーロッパとの貿易を独占しキリスト教布教を防止するため、海辺に飛び出した扇型の人工の島を長崎につくり、出島と名付けました。島は陸地と一本の橋で結ばれ、ポルトガル人をこの島に集住させました。ところが1637~38年にかけてキリスト教信者と農民による島原の乱(島原・天草一揆)が起こり、この鎮圧に苦労した幕府は、1639年ポルトガル船の来航を禁止しました。カトリック教国のポルトガルは、貿易とキリスト教布教を一体にして行っていたため、キリスト教を布教させたくない幕府に不都合だったのです。一方、プロテスタント教国であったオランダはそれまでキリスト教の布教と貿易とを切り離して行っており、平戸に商館を開いて貿易していましたが、幕府はこの国との貿易を継続させるべく、1641年オランダ商館を出島に移させ、オランダ商人を集住させることにしました。ここに鎖国が完成し、以後、出島にはオランダ人が集住し、この限られた場所で貿易が行われていました。1854年の日米和親条約で日本が開国し、1858年の日米修好通商条約でようやく欧米諸国との貿易が開始されると、外国人の貿易商は居留地と呼ばれる地区に集住させられ、長崎の中では、山手のグラバー園の周辺が居留地として指定されました。神戸や横浜にある外国人町はそのような居留地の跡です。こうして出島は歴史的役割を終え、島のまわりが埋め立てられて長崎の町の中に埋没していきました。しかし戦後まもなく、この出島を復元しようとする動きが始まり、長期間の発掘調査をへて、ようやく現在、当時の面影がわかる姿に復元されてきました。
以前は海と陸とを橋で結んでいましたが、現在は川になっていました。この橋が、江戸時代の長い間、唯一の西欧との窓口になっていたのです(図a)。復元されたものの中にはオランダ商人のリーダーであるカピタンが住んでいた建物もありました。その建物の一室には、当時の西欧の書物を集めた図書室もありました。その頃の日本には、この出島の中の限られたところでしか読むことのできなかった書物も多く、長い日数をかけてここまで旅し、許可を得て出島に入ってそのような書物を必死で筆記していた人たちも多かったようです。ここで学び、通訳となった人もおり、長崎通詞と呼ばれていました。彼らはほかの日本人よりも容易に西洋の科学の知識に触れることができたため、コペルニクスの地動説、ニュートンの万有引力などが書かれた書物を翻訳し西洋科学の紹介に貢献しました。そのようなほんの針穴のような隙間から貴重な情報を引き出して、われわれの先人は西洋科学を蘭学という学問として花開かせました。
医学に関する興味深い陳列物もありました。杉田玄白らが翻訳した『解体新書』(図b)やその翻訳にあたっての苦労話を語った『蘭学事始』(図c)などの書籍、その当時使われていた筒状の聴診器(図d)、今は耳にかけられるくい小さいですが、その当時は大きな集音機のような形で発明された補聴器(図e)、などです。ちなみに、出島に住んでいた西欧人は基本的にはオランダ人でしたが、オランダ商館つきの医師は、例外的にオランダ以外の国からも入国が許可されており、ドイツ人やスエーデン人なども来日していました。
そのような厳しい状況のもとで西洋学問を立派な学問にまで発展させた過去の日本人の業績に改めて敬服するとともに、同じ日本人としての誇りすら感じました。昔の人が長時間かかった仕事が一瞬ででき、遠距離でもすぐに移動できる時代という点で、私たちは当時の人の何十倍、何百倍もの時間をいただいています。「時間がない」という言葉をよく聞きます。もちろん昔に比べてやるべき仕事の量は増えたとは思いますが、活用できる時間もたっぷり増えているはずです。今の世の中に生きていることにつくづく感謝し、1日1日を大事にしなければ、と思いながら出島をあとにしました。

(a)出島にかかる橋          (b)解体新書

(c)蘭学事始             (d)昔の聴診器

(e)昔の補聴器

 

Follow me!