高瀬川を眺めながら

京都の街中には広い鴨川という一級河川が南北に流れています。その川に沿って西に木屋町通という細い道が走行し、これに沿って小さな浅い川が流れています。これが高瀬川です。これはもともと自然にあった川ではなく、秀吉から家康の時代にかけて朱印船貿易という外国との貿易に携わっていた京都の豪商角倉了以とその子素庵が開削した運河でした。ことの起こりは、秀吉の時代、奈良の東大寺大仏は戦国時代に松永久秀という武将によって焼かれていたため、秀吉は京都に大仏を造ろうと、現在の五条通付近に大仏殿を造営しはじめました。ところがこの大仏は秀吉の時代に大地震でつぶれ、その子秀頼の時代に再建しようとして火災でつぶれ、3度目の再建の際に、角倉父子が資材運搬を命じられました。重い荷物の輸送には、陸上運搬よりも海上、河川運搬の方が便利であったため、当初、了以は大坂(当時は「大阪」ではなくこう書いていました)と京都の伏見(京都市の南の端に位置する町)を結ぶ淀川をさかのぼり、伏見からは、京都市内を流れる鴨川をさかのぼってこの大仏殿へと木材など重い資材を運んでいました。ところがこの鴨川が問題でした。もっと昔に、はじめて院政を布いて天皇を背後であやつり政治を動かしていた白河上皇が、自分の意のままにならない3つのもののうちのひとつが鴨川の水、と嘆いたとの話がありますが、しばしば大雨のあとに鴨川は氾濫し、とても荷物運搬どころではなかったようです。そこで、了以は幕府に願い出て、伏見から五条付近の大仏殿近くまで浅い運河を開削しました。これが高瀬川のはじまりです。大坂から運ばれてきた木材を船から降ろして加工するため、当時は高瀬川にそって材木屋や倉庫がたくさん立ち並び、木屋町通りという名前がつけられたようです。ところで大仏殿のあった五条付近は御所からもなお遠く、京都の中心からは離れていました。そこで了以は、せっかくここまで造ったのであれば、大坂の物資を京都の中心部まで舟で運べるようにしようと思い立ったのか、そのあと、さらに北へと現在の二条通付近まで伸ばしました。ここが高瀬川の源流で、了以の邸宅もこのあたりにありました。高瀬川はこの付近の鴨川から水が引かれており、ここにはその当時の高瀬川での荷物の積み下ろしの面影を残す一之船入址があります。「船入」は船で運ばれて来た荷物の積み下ろし、船をそこで方向転換させるところでもありました。二条通から四条通まで9か所の船入があったそうですが、現在ではこの1つしか残っておらず、史跡に指定されています。大坂から三十石船などに積まれて淀川をさかのぼってきた荷物は伏見で十五石船などに積みかえられ、15隻ほどの船団となって一列になって高瀬川をさかのぼったようです。「高瀬」という言葉は、川底の浅いところ、浅瀬、といった意味があります。そのため全国に高瀬川という名の川はたくさんあるようですが、了以は岡山を訪れた時に浅瀬の川を平底の船が走る風景をみてヒントを得たと言われています。高瀬川は、開削された当時から水深30 cmほどの浅い川でしたが、川幅は8 mほどあり水量は多かったようです。そこを就航していた船は高瀬舟と呼ばれましたが、船底を平たくして浅い川でも運行できるようにつくられていました。多くの人員を雇って、自らの私財も投じて(しかし通行税なども徴収して収益も莫大だったともいわれていますが)、苦労して淀川から京都市内に運河を造る大事業をなしとげた了以は完成してまもなく息をひきとりました。その苦労をしのびながら木屋町通を歩くと、そこには多くの観光案内板が立っており、幕末の多くの志士たちの暗殺の場所、多くの藩邸が立ち並んでいた場所、など歴史の中心舞台となっていたこともわかります。春には桜も満開となり、京都の魅力的な風景となっています。

一之船入址

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