病魔大王の戦国武将討伐 最終回

当院の広報部から1年に4回ということで企画依頼があり、この病魔大王の戦国武将討伐と題して始めましたシリーズでしたが、早いもので今回が4回目、いよいよ最終回となりました。私にとっても小説を書くというのは初めての試みで、つたない文章をここまでお読みいただいた読者の皆様に感謝申しあげます。では最終回お楽しみください。

 戦国時代もいよいよ終盤となり、一時は、豊臣秀吉が天下統一を果たしました。ところが秀吉の野望はとどまることを知らず、次は明(当時の中国)を乗っ取るため、まずは朝鮮へと攻め入り、文禄の役、慶長の役と続けざまに朝鮮侵略をくわだてました。はじめは調子よく攻め入っていた日本軍でしたが、朝鮮の水軍に苦しめられ、制海権を奪われると、やがて日本軍の食糧補給路もたたれ、ジリ貧となっていきました。そんな中、あっけなく秀吉が亡くなり、日本軍は朝鮮から撤退しました。これを機に豊臣家の勢力は徐々に衰え、多くの武将の間で人望の高かった徳川家康が江戸幕府を開き、大坂冬の陣、夏の陣をへて豊臣氏は滅亡、ようやく平和な世の中になったのです。

さてここは天上。いつものように病魔大王と病魔童子が酒をくみかわしています。病魔童子が尋ねました。「父上、あの家康は、たぬきじじいともいわれ、なかなかずる賢いところがあるようですが、またひそかに討伐に行かれますか?」すると病魔大王は答えました。「いやいや、あの家康というやつにまかせておけばこのあと100年あるいは200年、平和が保たれるわい。そもそも家康が天下をとったのは、わしがつけこむスキもないほどの健康オタクだったからじゃよ」と説明を始めました。さて、家康はどのような健康オタクだったのでしょうか。ここで病魔大王の「家康健康オタク論」をご紹介します。

若かりし日の徳川家康は、戦国最強とされていた武田信玄に、三方ヶ原の戦いで完膚なきまでにうちまかされ、尿便を失禁しながらからくも城に逃げ帰ったことがありました。しかしその信玄も病魔には勝てず、信長に代わって全国に号令し、天下をとるつもりで京都に向かう途中で病に陥り亡くなってしまいます。その後、信長は病魔に侵された明智光秀に討たれ自害に至り、秀吉はこの慶長の役の最中に病没しました。いくら強大な勢力を持っていても野望を達成するまでに病魔によって討伐されていった武将は数多くいたのです。ここまで少しずつ武将の中での名声を上げてきていた家康ももう70歳をこえていました。大坂夏の陣で21歳の豊臣秀頼を自害に追い込んだ時点では74歳を迎えていました。ところがこの時点になっても家康は、いたって健康でした。その年まで健康寿命を保てたからこそ最後に天下を握れたのです。

では家康が長寿を迎えられた理由は、何だったのでしょうか。いろいろな説がありますが大きく分けて、適切な食事、効果的な運動、豊富な薬の知識、などがあげられます。

  1. 適切な食事:麦飯と味噌汁を中心にした一汁一菜または一汁二菜の粗食をベースにして、月に2~3度だけ贅沢な食事もしていました。またキジ、ツルなどの焼き鳥も食べ、タンパク質もとるというバランスのとれた食事をしていました。
  2. 効果的な運動:家康も今川義元ほどの肥満ではなかったのですが小太りの体型でした。しかし、運動が身体によいと考え、家来とともに城外に出かけ、しばしば乗馬や武芸にはげみました。最近、乗馬様他動的運動機器が販売されていますが、これを使った研究で、乗馬はメタボリック症候群の患者の内臓脂肪を減らす効果(内臓脂肪の低下は動脈硬化や一部の発癌の抑制にも関係することが報告されています)のほか、認知症の予防にも効果があることなどがわかってきました。その他、高齢となってからも剣術、弓術、水泳なども好んでいました。体力的にも申し分なかったことは、家康が生涯18人の子をもうけ、そのうち3人は60歳を超えてからの子であったことからもわかります。この親族の多さは徳川幕府の強い土台となりました。
  3. 豊富な薬の知識:多くの書籍をとりよせ、薬学を独学し、多くの薬を自分で調合していました。その知識たるやその当時の医師も及ばなかったとさえ言われています。なかでも八味丸という薬を愛用していたようですが、その他にも、数多くの薬を調合して薬棚に保管し、その当時としては最先端の漢方薬での治療を行っていました。

酒も飲みあかしたころ病魔大王はしみじみと言いました。

「確かに家康というやつはずる賢い面がある。しかしたまたま1回しかない命を天からいただいた以上は、これを大切にして思い存分最期まで生きぬいた、その姿はあっぱれじゃ。またそれを実現するためには、何をおいてもまずは健康であることが基本。家康はそれを自ら示してくれた武将じゃよ。」

大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ後、翌年家康は75歳でなくなりました。健康寿命を全うしたことは、彼が死の床につく直前に元気に鷹狩をしていたということでもわかります。その後、平和をもたらすべく戦国武将討伐の任務をもって病魔大王が地上に降り立つ必要もなくなり、徳川幕府はその後260年以上も続いたのでした。

——完——

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