越後の村上城
先日、新潟の朱鷺メッセで行われた学会に研修医セミナーがあり、ファシリテーターとしてグループワークなど研修医の相手をしてきました。そのあと、新潟市街から足をのばして私の好きな城をめぐってきました。今回訪れた村上城跡は、山形県との県境に近い新潟県北部の村上市にあります。標高135 mの臥牛山に築かれた平山城(平野の中にある小高い山や丘に築かれた城)です。もともと中世には越後の国人(自分の実力でその地域の土地支配の実権をもつようになった在地武士)であった本庄氏が造った、堀切(図1(a))や土塁(図1(b))からなる城で、当時は本庄城と呼ばれていました。中世の城はこのように自然の地形を利用して、土を掘ったり積み上げたりして防御機能をもたせたものがほとんどでした。その後、本庄氏に代わって、織田信長や豊臣秀吉の時代には村上頼勝が近世の石垣を使った城郭にするべく最初の改修を行い、さらに堀直竒に城主が変わり、江戸幕府が始まった元和年間(1618年)に大改修が行われました。天守閣は残っていませんが、今日残る石垣はこの時のものです。土塁のかわりに石垣を積み上げること自体は、織田信長以前にも西国の戦国大名が用いていましたが、基本は防御しやすい地形を利用しており、あくまで土をベースにしてそこで採取できる石を積み上げていました。高さもせいぜい3~4 mほどで、数段にとどまりました。これ以上高い石垣を積むにはその専門的な技術が必要でした。信長は、穴太衆と呼ばれた石工の大集団をかかえて9 mもの高さの石垣を築かせ、城域全体を石垣で造る総石垣を基本とし、石垣を自由に配置することによってさまざまな防御機能をもつ城を築きました。安土城はその意味で画期的な城となり、その後の近世城郭の模範となりました。今回訪れた村上城は、越後には珍しく総石垣で築城されており、見ごたえが十分あるものでした。畿内でも石垣をこのように積みだした初期のころは適当に組み合わせやすい形の石どうしを選んで積み上げ、その隙間を小さな石でうめていく、いわばがたがたの石垣であったのですが、時代が下り、村上城が大改修された頃には石工の技術も上がり、石を適切な形に切る切石という方法で加工し、算木積み(石垣の四隅の部分を直方体の石で長辺と短辺を互い違いに積み上げていく手法で、特に崩れやすい隅の部分を頑強にした)で積み上げていく手法がとられています。このような築城の手法をみても、徳川政権となってこの北陸地方にも、中央勢力の影響が色濃くでる時代に入った感があります。
村上駅から徒歩30分で着きました(図2(a))。時折雪が降り風も強くなる悪天候の中、雪が少し積もっていて一部は凍っているのですべりそうになることもありましたが、かろうじて登城し下山できました。雪が石垣の一部について石垣の全貌が写真におさめられなかったのが残念な気もしましたが、石についた雪が比較的規則正しい模様をなしており、石切された石垣が整然と積まれていることが実感できました(図2(b)(c))。山頂からは日本海と村上市街が眺望できました(図2(d))。この近世の城郭への登城路とは反対の方に別の下山道があり、中世の土を工夫した山城址がうかがえる散策コースとなっていることが案内板に表示されていましたが、さすがにこの雪では足を踏み入れる人もないようで、雪がさらに深く積もっていたため断念しました。