東寺を訪れて

コロナ渦の外出規制もなくなった中、東寺として知られています教王護国寺に行ってきました。まずは歴史背景から。
都が平城京から一時長岡京を経て794年に平安京に遷都されたころ、桓武天皇は仏教が政治にいろいろ口出ししてくるのを嫌い、平城京にあるいろいろな寺が京都に移転してくるのを禁じました。今でこそ多くの寺院がある京都ですが、遷都当初は、この東寺と、その西に建てられた西寺しかありませんでした。その東寺と西寺の中間の場所に羅城門と呼ばれる平安京の南で内外を分ける門がありました。この門を入ると幅84 m(現在の道路では信じられない幅です)の朱雀大路と呼ばれるメインストリートが南北に走り、これを4 km北上した場所に皇居が含まれる大内裏が造営されました。平安京は唐の都城制と呼ばれる都市づくりをモデルにして造営されていきました。その当時、唐には首都の「長安」と副都の「洛陽」の2つの大都市がありましたが、朱雀大路の東側の左京は「洛陽」に、西側の右京は「長安」を真似て造営されました。その後、唐の文化を取り入れることが流行となる中で、いろいろなものに唐風の名前がつけられるようになりました。そこで平安京の東半分である左京は洛陽城、西半分は長安城と名づけられました。しかし古くから西側は湿地帯であまり人が住まず、東の白河、南の鳥羽に人が住みつき繁栄しました。そこで平安京といえば東側の洛陽城のあたりが中心となったのですが、これが洛陽に、やがて京都のことを洛という字で表すようになりました。京都に行くことを上洛、京都の南の方を洛南、北を洛北、などと言うのはこのためです。
桓武天皇の意思を受け継いだ嵯峨天皇は、文化を高めることは国の興隆につながるという文章経国思想に傾倒し、唐の文化を取り入れることを好みました。そこに唐から帰国した空海と話をして意気投合し、2つの大きな寺のうち東寺を空海にプレゼントしました。空海は、このころ唐で密教と呼ばれる最先端の仏教を学んで帰国してきました。彼は現生で即身成仏を目指す秘密の修行方法を身につけたとして、現世利益というキャッチフレーズを喧伝して貴族の支持を受けました。密教は、曼荼羅と呼ばれる絵に象徴されるような、大日如来を中心とした宇宙空間を背景にして展開される仏教哲学であり、われわれには理解しがたいものですが、少なくとも、自然科学もあまり発達していなかったその当時に、仏教哲学で宇宙の真理を極めようとした点で、やはり空海は天才的な人物だったのだろうと思います。歴史話はこのあたりまで。
さて、東寺の金堂、講堂には多くの仏像が安置されていましたが、その多くが大仏とまではいかないにせよ、人よりははるかに大きい像でした。時代が下って末法思想の流行で浄土教がさかんとなって、来世で極楽に行きたいとすがって祈る民衆が増える平安中期以降ですと、人と同じくらいのサイズで大量生産された阿弥陀如来像で、より民衆に親近感をもたせているように思います。東寺の仏像は、どちらかといえば、大きくて高いところから人を厳しい目でみつめ、民衆を畏怖させるような、何か神秘的な雰囲気をかもし出しているようです。愛染明王など憤怒の形相を持った仏像も多く立ち並んでいることも、その雰囲気を強調しているようでした。
東寺といえば五重塔がシンボルマークのようですが、この連休期間中は、五重塔の内部が公開されていました。内部にはやはり仏像が安置されていました。時代はかなり下るのですが、それでも金箔や色彩がしっかり残っているのは、普段は未公開だからだと思います。やはりこの塔内部も密教の世界を象徴しているそうです。説明書によると心柱は中心仏である大日如来に見立て、その周囲の須弥壇上に阿闍如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の金剛四仏と八大菩薩が安置されていました。また、この塔は火災によって再建が重ねられてはいるものの、地震で倒壊したことはないそうです。これは、塔の構造に、地震の揺れを分散させるしくみがあるそうで、しばしば、法隆寺の五重塔でも言われています。
東寺を出た後、足をのばして、羅城門址と西寺址も見てきましたがいずれも公園となっており、わずかに説明書がありました。西寺址にはわずかに何かの柱を支える礎石が残っていましたが、ほとんど当時の面影はなく残念でした。
来世のことはわかりませんが、日本という国で現代を生きる我々としては、ぜひ現生利益を得たい。そのためには、まだまだ修行が足らぬと、厳しく言われているような気がしながらの、久しぶりの古寺巡礼でした。

上から金堂、五重塔、羅城門と西寺址

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