法隆寺金堂釈迦三尊像

「新美の巨人たち」(テレビ大阪放送)から

新型コロナウイルスの影響で、不要不急の外出はできない状況が続いており、私自身の歴史探訪も控えておりましところ、3月22日テレビ大阪で放映された「新美の巨人たち」の中で、法隆寺がとりあげられていました。現在、新型コロナウイルスが全世界で猛威をふるっているのと同じように、その当時も、規模はずっと狭い範囲ではありますが疫病が日本各地で広がり、さらに飛鳥の都では蘇我氏と物部氏の戦いなど戦乱も起こって多くの人が亡くなっていました。そんななか用明天皇が病に陥り病状が悪化、そのあとを継いだ推古天皇、天皇の政治を補佐する聖徳太子らは、その頃広がり始めていた外来宗教であった仏教にひたすら病回復の祈願、また万一病が回復しなかった場合の極楽浄土の祈願をこめて法隆寺を建立しました。金堂に安置されている釈迦三尊像の後ろについている光背には、そのような寺が建立された背景、仏像が聖徳太子の没後に冥福を祈るために造られたという背景、仏像は当時仏像彫刻を担っていた鞍作鳥(止利仏師)の作であること、などが記載されています(図1(a))。

この中央に安置される釈迦如来像は、北魏様式と言って、もともとは浮彫りを原型にしたもので、立体の仏像ではありますが正面からみた形を重視した像となっており、横から見れば写実性という点では完成度はそれほど高くありません。しかしその顔の表情は、「アーモンドのような形」をした目、「結んだ唇の端がやや上に向かう仰月形」の口、などアルカイックスマイルといわれる独特の微笑をたたえています(図1(b))。実はこの独特の表情は飛鳥時代の仏教彫刻に特徴的にみられ、時代がくだると仏像の表情にも微笑は消え、どちらかというと毅然とした、あるいはときに厳しい表情となる一方、身体全体としては立体感がでて写実性に富んでおり、人の身体に近いため彫刻としては親しみやすいものへと変化していくように思います。

この飛鳥時代の仏像は正面視の姿を重視されて造られているのですが、その台座の下面に、最近、波のデザインが発見されたそうです(図1(c))。番組ではこのデザインを公開していて、これは、海の上に釈迦如来が浮き上がって、病に苦しむ人たちに向かって優しく微笑みながら救いの手を伸べようとする仏教の世界が表現されていると解説していました(図1(d))。さらに時代が少し下った白鳳期には、この金堂の四方の壁に、遠くシルクロードを西にたどってインドのアジャンター石窟の壁画にも類似する異国風の仏教壁画が描かれ、釈迦三尊像を取り囲んでいました。まさに疫病がはやり戦乱による死者も多かった時代に、日本に伝来して間もない仏教にひたすらすがろうと祈念して作られた背景があったからこその金堂の空間の中に表現した芸術といえます。法隆寺の建立のきっかけが用明天皇の病にあったことで、この時代にどこまで一般民衆まで救いの手をさしのべようとしていたのかはわかりませんが、時代が下って奈良時代になると、国が認めた特定の僧侶たちによって仏教経典が研究される風潮となり、むしろ一般民衆への布教は禁止され、厳しい修行を行い戒律を守る必要があるなど、民衆救済に目が向けられていませんでした。仏像にも身体全体に写実性は増してくる半面、やさしい微笑は消えてしまったのもうなずけます。仏教が一般民衆の救済に目を向け、多くの民衆に布教を呼びかけるのはさらに時代がくだって浄土教が広がり始めた平安時代10世紀なかばまで待つことになります。

病に苦しむ人たちに救いの手をのべるような飛鳥仏の微笑に週末はなぐさめられながら、明日からまた一週間をがんばりたい、そう思いながら今日はこの稿を閉じたいと思います。

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