関門海峡の長州砲

 先日、下関で学会があり、学会終了後に週末を使って下関を旅行してきました。本州と九州を結ぶ関門橋があるのはご存知と思いますが、その橋のたもとを走る一般道のそばにみもすそ川公園という小さな広場があります。ここは、平家が滅んだ壇ノ浦の古戦場に近く、江戸幕末には長州藩の領内でした。当時、イギリスが大量生産で安く売れる自国の綿製品をインドに売り、得たお金でインド産アヘンを購入、このアヘンを中国(当時は清国と呼ばれていました)に売り、清国産の銀や高級な茶を買う、という三角貿易で巨利を得ていました。清国政府がアヘンを没収するとイギリスは武力に訴えて1840年アヘン戦争を起こして清国を倒し、1842年南京条約を結ばせて香港をイギリスに割譲させました。長州藩は、日本が1854年に開国後、1862年には藩命で幕府使節随行員として長崎から上海へ高杉晋作ら家臣を派遣し、この国際情勢を見聞させていました。この当時、日本は約260もの藩に分かれており、長い鎖国が続いていた結果、多くの藩ではせいぜい自分の藩を『くに』という世界でみるのが精一杯のところでしたが、長州藩、薩摩藩、肥前藩など西国の雄藩と呼ばれた藩は、国際情報を収集し、世界の中で『日本』がどうなっていくべきか、という問題に目を向け始めていました。そのような背景のもと、アメリカに続き、他の外国とも貿易が開始されましたが、海外の貨幣価値に日本の貨幣価値を合わせるために行った貨幣改鋳により諸物価が上昇し、貿易関税や裁判における不平等な条約内容などもあって、長州藩は攘夷、つまり外国の勢力を撃って排斥せよという考えが藩論となっていました。関門海峡を外国船が通る姿をみていた長州藩は、京都の過激な公家勢力を介して、外国船を撃つことを幕府に許可させました。長州藩はそれを受けて関門海峡を通過したアメリカ、フランス、オランダ船に大砲を撃って若干の損害を与えました(外国船砲撃事件1863年)。これまで攘夷派と呼ばれた武士の襲撃事件なども散発する中で、攘夷派に打撃を与える口実をみつけたかったイギリスは、公使オールコックを中心にアメリカ、オランダ、フランスと連合艦隊を編成して長州藩を襲撃し、砲台を占拠、破却しました(四国艦隊下関砲撃事件1864年)。その後、以前に香港の実情を理解していた高杉が講和会議に代表として出席し、連合艦隊側の多くの条件を受け入れましたが、唯一、長州藩領の彦島の割譲は最後まで受け入れず、何とか日本の一部が植民地化されるギリギリのところで踏ん張りました。外国船の砲撃を許可した幕府は、責任をとって賠償金を支払いました。この事件を機に、長州藩は諸外国との武力の差を思い知らされ、攘夷の不可能を知り、1866年には薩摩藩と薩長連合という秘密同盟を結び、倒幕の姿勢に転じ、外国の武器を購入し科学技術を導入していきました。長い鎖国の間に、西洋諸国はどんどん技術を発達させ国力をつけいていることを実感し、この遅れを一刻も早く取り戻さなければ、という思いに駆られたのです。今回訪れた関門海峡のこの小さな公園には、その当時、壇ノ浦砲台があり、前田砲台とともに長州藩の主要な砲台がおかれていました。ここに、その時に使用された長州藩の大砲の原寸大レプリカが関門海峡に向かって並んでいました。外国船に向けてこの大砲を撃ったときは、まだ力の差を知らなかった長州藩でしたが、この時の惨敗の思いが、倒幕のエネルギーとなり明治新政府の原動力となりました。倒幕の中心となった長州藩と薩摩藩は、明治時代に入ると、藩閥政府とも非難されるような、両藩の出身者がほとんどを占める政府をつくり、国政をひっぱっていくことになります。

(a)壇ノ浦砲台跡に並ぶ長州砲。原寸大のレプリカ。全長3.56 m、口径20.0 cm、砲架一体高さ2.92 mと3.52 mとがあり。(b)天保製長州砲。長州藩の鉄砲家郡司喜平治信安作。

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